我々写真を撮る者にとってシャッターを切るということは、大方において被
写体の何かに感動を覚えたからでしょう。尤もそうでない場合もあります。
単なる観察記録や記念写真といった類がそうです。それ以外では撮影者
が自己の感性でそれなりの感動を覚えた瞬間をキャッチするためにシャッ
ターを切るはずです。そしてその出来上がりを期待しながら鶴首の想いで
過ごします。この待ち時間も写真の楽しみの一つです。
写真の楽しみといえば、子供の頃の遠足に似ています。お天気を気にしな
がら当日を迎える楽しみ、現場での光景を前にしてどうしようかあれこれ
思案する楽しみ、時にはカメラをセットする間もない突然の素晴らしい自
然の演出に出逢う楽しみ、又、新たな発見に我を忘れる楽しみ、そして手
応えのあるシャッターが切れた時の感動と満足感、更に各人の思い入れ
としての楽しみ方等、枚挙に暇がありません。
しかし何といっても格別の楽しみは、思い通りに仕上がった時でしょう。こ
れは言葉に尽くせないほどの喜びです。尤も、言葉に尽くせないほどの感
動に出逢ったからこそシャッターを切ったのですから。
ところで、ここで気になることは各人の感動の問題です。このことについて
少し考えてみます。
結論的に言いますと感動のレベルの問題であり、又、撮影者の感動を鑑
賞者が共感し得るかどうかという問題です。とかく趣味というのは得手勝
手で一人よがりが多く、好き嫌いの範疇を超えられないという問題があり
ます。
中国の賢人の言葉に、「趣味は語るべからず」というのがあります。この
意味合いは、「趣味は好き嫌いの問題であるから、何ら他人に強要すべ
きでないし、又、議論するべきものでもない」ということを言っているもので
す。つまり、趣味はあくまでプライベートな事柄であり、自身の楽しみでよ
いのであって、他人にとやかくいう問題ではないということです。
これを趣味としての写真に関していえば、他人に語ることも、又、見せるこ
ともナンセンスだということになってしまいます。
何故こんなことを書くかと
いいますと、一人よがりの写真に陥らないようにして貰いたいからです。楽
しみは楽しみでいいのですが、自身の感動を他者にも実感して貰える「共
感を呼ぶ感動」を目指して貰いたいのです。この「共感を呼ぶ感動」は趣
味とは別次元のものです。このことを説明してみます。
先ず好き嫌いといった趣味の場合、それほど感性や感動のレベルが経験
的に変わるということはありません。何故なら、好き嫌いというものは一種
の偏見であり、又、性格的なものだからです。改めようにもなかなか困難
でしょう。
一方、感性や感動というものは、好き嫌いと違って経験的に左右されるも
のです。例えば最初に訪れた場所や光景は、とても新鮮で感動的なもの
です。しかし何度も訪れると、もう最初の感動のような胸のトキメキは覚え
なくなります。これは見慣れるということと、そして別の新しさや感動を求
めるからです。このことは人間の好奇心と学習という脳のメカニズムに由
来することなのです。
この様に初めての経験や体験というものは、自然に驚きや感動を伴うもの
です。それに先ほど二度目以降の体験は感動が薄らぐといいましたが、場
合によっては最初の感動を超える場合もあります。それは、同じ場所でも
自然の織りなすドラマによってはまったく新しい光景にもなりますし、自身
の考え方や視点を変えれば、又、新たな感動を体験することができるから
です。
このようにして次から次へと新しい感動を体験していくことによって、その
感受性は磨かれ、更に高まっていくことになります。このことが経験による
感動のレベルアップということなのです。
しかしながら、ここで最も大事なことは、ものの見方や考え方が変わらな
ければ、感性や感動のレベルも変わらないということを理解しておくことで
す。つまり、現在の考え方や感性のままでいくら新しい光景やものを求め
ても、選択(ものを見る)尺度が一定なのですから感動のレベルも一定で
あり、被写体そのものの新しさは発見できません。勿論、感性も新しいも
のとはなりません。換言すれば、同じ感性で写真を撮っている限り、常に
新しい被写体を追いかけるだけで、写真そのもの、即ち撮り方や表現は
変わることはないでしょう。
感性を新しくするということは、ものの見方、考え方を新しくすることにはほ
かなりません。ですから、自身の持ってない新しいものの見方や考え方を
外から学び、内に眠らせているものを呼び覚ますことしかありません。
その方法として、先ず既存の価値観や好悪の念を外して、純粋にものごと
を見つめ、好奇心をかき立てることです。そうすれば新しい感性が自然と
働き、又、身に付きます。
例えば写真集や写真展を観る場合、今まで自分の好みだけで観ていたも
のを、好みでないものにも目を向けていくことを実践することです。これは
写真に限らず、あらゆる事柄に対しても同様にすることです。取り敢えず
写真に関してだけでも実践してください。
ものごとを好みで観るということは、既に偏見の目で観ているということで
あって、新たな感性も目覚めないし、自身と異なった感性も受け入れるこ
とはできません。好みでないものにこそ、学ぶべき多くのものがあるので
す。子供のような好奇心や純粋な心でものごとを見つめれば、新しい発見
は無限に広がります。これこそ感性をレベルアップする方法であり、新た
な経験そのものなのです。
真に偉大な画家(芸術家)は同じような作品は作りません。常に新境地を
開くべく作風を変えるものです。新しさを求め心の彷徨をするということで
す。つまり感性を磨きつづけるのです。
かの有名なレオナルド・ダヴィンチは「間断なき飛翔」という言葉で、常に
高きへ飛び続けることの大切さを説いています。又、日本の世界に誇れる
画家、葛飾北斎も次のようなことを言っています。「幼少より七十年近く描
き続けてきたが、未だに取るに足るものはない」「もし、百有十歳まで描き
続けられれば、本当の生きた絵が描けるであろう」と。
この両巨匠にして、この心境なのです。要するに作品作りにおいては留ま
ることなく学び続け、模索し続けることが肝要であることを示唆しているの
です。彼らの作品が観る者にとって飽くなき感動を呼び起こし、時代を超
えて輝き続けることができるのも、こうした精神性によるものではないでし
ょうか。
これらから学ぶべきは、やはり精神性でしょう。弛むことのない精神と感
性を磨き続けたからこそ、それに伴い技法も必然的に追求され極められ
たということです。
人々を感動させ得るのは、やはり精神的行為です。ものや単なる景色で
はなく、又、作品そのものでもありません。作品に込められた作者の想い
であり、感性であり、感動そのものなのです。そして誰もが感じなかった、
経験しなかった感動こそ、観るものにとってまさに「共感し得る感動」とな
るのです。
学び続け磨き続ける感性にのみ新しい感動が生まれ、更に表現としての
作品から「共感を呼ぶ感動」が生まれることになるというわけです。
我々も偉大なる魂に学び、少しでも歩み続けるよう頑張りたいものです。た
とえ微々たるカタツムリの歩みでも、確かな飛翔に違いはないのですから。
ー守道ー
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