「写真が上手くなりたい」「素晴らしい写真が撮りたい!」 写真をする人な
ら誰しも思うことでしょう。ところが一朝一夕には上手くなれません。当然
のことです。でも焦る必要はありません。基本を一つ一つ覚え、消化し、身
に付けていくことで自然と上手くなるものです。それを焦るばかりに、先を
行こうとして失敗します。基本も理解せず、むやみに撮っても上達はしま
せん。何事も基本の積み重ねが第一です。
ところで「上手い写真」と「良い写真」は同義でしょうか? これは根本的に
違うのです。このことを良く理解すると、写真はその日から変身します。
まず「上手い写真」というのは、端的に言うと、技術に長けた写真のことで
す。具体的には構図や露出、アングルやレンズワーク、そしてシャッター
チャンス等の適切な写真のことです。
一方の「良い写真」とは、素直な感動や感性に基づいた共感を伴う写真の
ことで、即ち作者の心の伝わる写真です。
この双方のどちらが上かは一概に言えませんが、単に上手い写真より、
心の伝わる写真の方が内容的には上でしょう。しかし、心の感動を伝える
べき内容的な写真を撮ろうとしても、技術が未熟では、その感動も十二分
に鑑賞者に伝えることはできません。ですから、写真は内容が重要ではあ
りますが、それを表現し伝え、共感を得るための技術が要求されます。
つまり、目的としての良い写真の条件である内容を表現する為に、手段と
しての技術があるという写真のあり方こそ、「上手くて、良い写真」を撮る
前提条件になるのです。
そこで最も重要である表現の内容ですが、何も難しく考えることはありま
せん。ストレートで純粋な感性、感動する心、そして人一倍の好奇心があ
ればそれで充分です。ところが常識や偏見に毒され、世間の俗っぽい垢
に染まりきった大人にそれらが残されているかどうかは大いに疑問です。
しかし、「私にはそんな感性等はない」といって諦めることもありません。誰
にでも輝く独自の感性はあるのです。只、自分で気付かずにいるか、垢ま
みれで埋もれているだけなのです。その証拠に感性を”磨く”とは言います
が、”作り出す”とは言わないことでもお分かりでしょう。
生来の感性を呼び起こし磨き上げるには、これまでに培ってきた常識や
偏見、又、俗っぽい見識等を棚上げしてみることです。そしてあらゆるもの
ごとに対して、一切の尺度を持たずに素直な心で対処することです。そう
すれば子供のような無邪気な好奇心が沸いてきます。この好奇心こそ感
性を目覚めさせ、磨き上げ、そして豊かにしてくれる原動力なのです。感
性が豊かになれば自ずから感動も豊かになります。感性とは、感動する
性質の異名なのですから。
写真を撮影者自体が感動しないような作品は、当然のこと鑑賞者も感動
しません。それに感動の度合いも常に高めていくことも大切です。何故な
ら、同じレベルの感動を何度も鑑賞者は受け入れてくれません。ですから
感動のレベルを高めていくためには、あらゆるものごとに素直に反応し、
貪欲なまでの好奇心をもって、常に新しい感覚を身に付けていくことです。
このように感性を高め深めていくために、常に心を自由になにごとにも縛
られず、奔放な精神を保つことです。子供のように無邪気で天真爛漫にも
のごとに反応し、常識や世間体とうでものごとを見ないことが大切です。こ
と写真に関してだけでも実践してみましょう。
「感性と技術」この二つは共に磨かれ高められ、そして一つに融合された
とき、その作品は「上手くてしかも良い作品」といえるものになります。です
から感性と技術のどちらが未熟でも、又、一方だけが長けても片手落ちな
のです。心の通った感動を呼び起こす表現力の確かな写真、つまり、「心
技一体の写真」こそ、「上手くて良い写真」なのです。
我々は、「心と技」の両面を磨きながら、ライフワークとしての写真を、子
供のように純粋に無邪気に、そして大いに楽しみたいと思っています。そ
うすれば、必ず人々に感動してもらえる『とても上手くて、素晴らしく良い作
品』が自然とものにできると確信しています。又、できるまで、そしてできて
も、更により良い作品を目指して共に精進していきたいと思っています。
ー守道ー
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