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21 『 写心不二論 』
 

一般に「写真」とは、写す側と写される側があり、その写される側、つまり

対象の真の姿を、写す側がカメラや感材を使ってできるだけアリのままに

再現しようとする行為やその作品のことをいいます。

 
従って写す側は形態や色再現に留意し、できるだけ自然にリアルに写るよ

うに知識や技術を駆使します。その際、写す側の人間性や精神的内容は

さして問題ではありません。記録的・再現的目的のみに最大の関心を寄せ

ていればいいのですから。

 
この記録的・再現的写真を芸術作品と呼べるかどうかは別にして、単なる

記録的再現である以上、写す側の創意や精神性は殆ど必要ありません。

むしろ創作的意図があってはならないのです。何故なら、それらがあれば

対象の「真」を歪めることになるからです。

 
写真は誕生して以来、百五十年を経た今日でさえ、未だに記録的再現性

の範疇を脱していません。これはこれでいいのですが、というのも写真の

誕生の目的の一つが「真」を写すということにあったのですから。それ故に

日本ではこの科学的産物を「写真」と命名したのです。

 
しかし今日、写真が単に記録や再現のみに目的を置いていていいのでし

ょうか? 決してそうではありません。何故なら、現代のカメラやレンズ群

を見れば一目瞭然です。それらのカメラ等には機能的に見てもあらゆる

表現を可能にするメカニズムが組みこまれ、又、人間の能力や感覚を超

えたスピードや光さえもコントロールできるように設計されています。これ

らは、作品と呼ばれる芸術の創作の為のメカニズムであるといっていいで

しょう。更に「写真]の語源から推してみても分かります。元の語源の「フォ

トグラフィー」は、その意味合いから「光画」と訳されるべきでありました。

それが真を写すから写真と訳されたのであり、この訳語が今日まで幅をき

かし、記録的再現性からの脱皮を拒んでいるのです。

 
もしも写真が「光画」と訳されていたら、おそらく異なった進展を見せてい

たはずです。それは光と陰が描く画像であり、そこには記録も再現もある

が、写す側の意思、即ち創作という含みもあるからです。「絵画」がキャン

バスに筆と絵の具を使って自由に描くのと同様に、「光画」はフィルムとい

うキャンバスにカメラとレンズを筆にして、光という絵の具を使って描く絵な

のですから。

 
以上を見ても分かるように、「写真」そのものには可能性や発展性が内在

しているわけであります。しかるに、従来の記録や真を写すという面にの

み重きを置いていると、それはあくまで対象の再現であり、又、コピーでし

かなく、絵画や彫刻のような芸術としての発展性を閉ざしてしまいます。写

真が芸術としての価値を生むためには、写す側の創意や工夫が不可欠で

す。つまり、創造としての写真でなくてはならないのです。この意味におい

ても「写真」という訳語は不適切でしょう。

 
かといって、「光画」と呼ぶには時代錯誤もあり抵抗が生じます。写真が創

作を目指すものとして、未来に展望が望める適切な呼称があります。それ

が「写心]なのです。これは単なる語呂合わせではありません。この呼称

について少し述べてみたいと思います。

 
「写心」は読んで字の如く「心を写す」という意味です。このことは従来の「

写真」にあっても、記録や再現の中に写す側の心は写っているはずです。

但し、その心の写り方が消極的なだけです。一方の「写心」は積極的に写

す側の心を反映させ、思い通りの作品になるように創意工夫をして創造す

るという意味合いを持ちます。

 
このように何れの呼称にしても写すという行為は、その主体者の心が間接

的・直接的に反映されるものです。とするならば、「写心」という積極的な

意思の反映による作品作りこそ個性の発揮であり、創造であり、芸術とし

ての展開を可能ならしめるものではないでしょうか。

 
ところで「芸術」とは如何なることをいうのでしょうか?

 
これには様々な定義があると思いますが、単的に要約しますと、「美の創

造と探求」ということになるでしょう。これは飽くなき美の探求によって、よ

り高次へと培われていく美意識の内容を、作者の持てる能力やあらゆる

技法を最大限に発揮し、作品として現象化していくことを意味します。

 
故に、従来の写真的「再現]から写心的「表現」へ、写真的「記録」から写

心的「創作」へ、この移行こそが芸術としての写心のあり方であり、写す側

の心の反映として美の創造へのチャレンジとなり得るものであります。


さて肝心の「写心」、即ち心を写すということはどういうことでしょう。このこ

とについて具体的に述べてみたいと思います。

 
心を写すといっても、それには三通りの心が考えられます。

 
  
一、「主体者(写す側)の心」
  二、「客体者(写される側)の心」
  三、「相対(主・客)を超えた心」


これらの三つのケースが考えられます。次にこの一々について述べてみ

ます。

 
先ず第一の「主体者の心]の場合、
 
これは写す側の心のあり様を写す対象を借りて表現することであります。

その心のあり様とは、ものの見方、考え方、そして生き方等であったり、更

にはその場その時の感受性であったりします。要するに主体者の精神的

内容を「写心」という行為で作品化し表現することであります。これは主体

者の心の反映ですから、その時点での精神状態や美意識、更には人格に

至るまでの内容が作品の内に表象されることになります。表象されるとい

うよりも、積極的に表現することでなければなりません。

 
もしそれらが表現できていなければ、作品として未熟といわなければなり

ません。そうならない為にも、日常的に美意識から人格まで精神性を高め

ることは勿論、表現能力、即ち知識や技術を熟達していかなければなりま

せん。要するに、「心技一体]としての鍛錬が要求されるということです。

 
第二の「客体の心」の場合は、
 
それが動物や人間に限らず、いかなる事物にあっても、それらにはそれら

の存在としての本質や命があります。ですからその事物の本質や命、即

ち写される側の心を写すということなのです。
 
本質等を写すわけですから事物等の形態や色彩等の外的要素に執らわ

れることなく、その内なる輝きを感得することが必要になります。その為に

ものの本質を観る目、即ち心眼を磨くことが要求されます。


このような事物の本質は、姿・形というような現象にあるのではなく、隠れ

た内なるところに存在するものです。それが本質としての特性なのです。

故に従来の写真に於ける再現や記録的表現ではものの本質は表現でき

ません。事物の本質を表現化することが可能なのは、やはり「写心」として

の主体者側の心と技の作業なのです。

 
さて、残された第三の「相対(主・客)を超えた心」とは何か?

 
この第三のケースは、第一、第二より更に難しい作業となります。

 
先ず、「主客を超える」とは如何なる意味か? を考えてみます。

 
主体は写す側、客体を写される側として、この二者は常に対峙した関係に

あります。つまり相対として二つの立場が存在することになります。このこ

とは一般論として次のことを意味します。

 
人間がある一つの立場に立つと、その立場でものごとを考え行動します。

これを「立場的主観]と呼ぶことにします。この一つの立場にある主観と、

他の同じ主観、つまり他の立場にある主観とが対峙すればどうなるでしょ

う? これは当然立場が異なるのですから対立の方向に向かうのが自然

でしょう。

 
それを或る立場に立ちながら、対立するもう一つの立場に立つことができ

るかどうか?もし出来たならばそれは「主客を超える]とまでいかないけれ

ど、少なくとも主客の対立は避けられます。

 
人間すべてがこのように常に相手の立場に立つことが出来たなら、世界

平和も遠い夢ではなくなるのでしょうが・・・。

 
更に進んで、一つの立場に立ちながら、しかもどちらの立場にも立たない

ということができたとしたらどうなるでしょう? 実は、このことが「主客を超

える」ということなのです。この「主客を超える」ということを換言すると「主

客に執らわれない」ということになります。

 
ところで、「写心」において主体としての立場に執らわれ過ぎるとどうなる

かを見てみましょう。

 
例えば主体としての写す側が客体としての写される側の心(又は本質等)

を無視し、己の欲するままに撮ったとすれば、それは単なる写す側のエゴ

としての「写心」となるでしょう。
逆に、客体としての写される側を必要以

上に意識し過ぎた場合はどうでしょう? それは媚・諂いとしての「写心」

になりかねません。

 
この様にどちらにしても執らわれ過ぎれば、写す側のエゴや写される側に

飲み込まれた、歪んで醜い、そして美意識から遠くかけ離れた写心でしか

ないでしょう。これは写心という心そのものに執らわれ過ぎた結果、主客

のこだわりを捨てられずに、美の本質を表すどころか、逆に醜く歪めてし

まうという悪い写心の典型といえるでしょう。

 
それでは最後の最も難しい「主客を超えた心」の表現について考えていき

たいと思いますが、先に述べた「一つの立場に立ちながら主客に執らわれ

ない心」のあり方を見ていきます。

 
最初に、主体と客体の心の働きについて見ることにします。

 
主体が客体を写すわけでありますが、客体が人間かそれに近い動物であ

れば、意思の疎通がある程度可能となりますが、必ずしもそうであるとは

限りません。この場合、客体の心を如何に「写心」にするか? これが難

問でしょう。しかし方法はあります。

 
何時如何なる場合であっても「写心」をするということは、客体としての写さ

れる側が存在しています。通常、写す側は常に主体としての意識を持って

います。つまり、「自分(主体)が何々という被写体(客体)を写す」という意

識です。この写すという意識は自発的なもののようですが、しかしこの認

識は必ずしも正しい認識であるとは限りません。

 
例えば、花を写すという場合を考えてみましょう。

 
花にカメラを向け、そしてシャッターを切った。この場合、写す側は「行為

の全ては自分の自由意思で行った」と思っています。否、そんな意識すら

持たないのが普通で、まして疑う余地すら持たないでしょう。ところが、実

はこの行為は自身の自由意思で行ったのではないのです。「そんな馬鹿

な!」と思われるでしょうが、しかしこれは事実なのです。 

 
「花を美しいと感じたから写した」「それは自身が感じたのである」
この様

に誰しも疑いも持ちません。しかし果たしてこの通りでしょうか? 実は、

主体者である写す側に美しいと感じさせたのは、客体者としての花なので

す。この問題を証明してみましょう。

 
蜂や蝶は花にどうして寄ってくるのでしょうか? 「蜜や花粉を集めに寄っ

てくる」このことは事実です。しかしそれは花が虫たちに仕組んだことなの

です。花は自己繁殖できません。そこで昆虫たちを使って媒体としての役

目をさせ、そのお礼で蜜等を与えているのです。

 
ここで重要なことは、昆虫たちを寄せる手段として色や香りを際立たせて

いるという事実です。尤も、色に関しては我々人間の可視光域と昆虫たち

のそれとは異なり、同じ色には見えていないのですが・・・。

 
この昆虫たちの媒体としての役割は、動物や人間に対しても当てはまり、

色や香りも手段として有効に作用しているのです。だから、人間が花を美

しいと感じたり、色や香りに酔いしれるのも当然のことで、花たちがそう仕

向けているのですから。

 
「花を美しいと感じ、シャッターを切った]「それは自分の自由意思で・・・」

このことは実は誤りであって、客体者としての花に主体者としての写す側

がシャッターを切らされたのです。このことは、客体が主体に働き掛けた

のですから、主・客の逆転といえるのではないでしょうか?

 
これらのことを理解されるなら、花にも心が在り、その心が人間の心に働

き掛けたのであって、人間が花に美しいと感じさせら、そして夢中でシャッ

ターを切らされた、ということが理解できるでしょう。

 
この花と人間の関係を立場的に見ますと、最初は人間が主体者という立

場に立ちながら、知らず知らずのうちに花に仕向けられて客体者の立場

に立たされており、逆に最初は客体者の立場にあったはずの花が一転し

て主体者の立場に立ち、人間を客体者として扱っているのです。


この様に立場や主・客という対極の観念に執らわれなければ、自然体とし

て主・客が入れ替わり、そして一体としての心が即応し、ことさらに撮ると

いう意識もなくなり、「主・客を超えた立場」で夢中にシャッターを切ってい

る元の主体者があるだけなのです。実はこれこそが、究極の「写心」の姿

なのです。

 
しかしながらこう言ってしまうと、如何にも簡単そうに思えますが、決してそ

うではありません。何故なら、人間は主・客(相対)の分別ゃ写そうという意

識は常に働きます。この相対分別や自意識は人間である故の意識構造な

のです。分かりやすくいえば、人間は常にすべての「もの・こと」に関して、

是・非、有・無、好・嫌、そして優・劣等々の相対的な判断をし、自分にとっ

ての価値付けをして生きているわけです。故にこの相対分別の判断が働

く限り、上述の主・客の立場を超えることは簡単にいかないことなのです。

 
例えば、分別判断を働かせないで写心をするということは、知らず知らず

にカメラを持ち、知らず知らずに花に近づき、そしてシャッターを切ってい

た。というようにまるで無遊病者の振る舞いになります。簡単にいかない

はこのことです。

 
しかしこれも方法はあります。それは仏教の「爾二不二」の真理を理解す

ることです。この真理を理解し、そして体得すれば仏教の究極目標である

「悟り」が開けるといわれているものです。仏教者においても至難なことな

のですから、凡人の我々には理解することすら難解であると言わざるを得

ないものです。ここで詳述するわけにはいきませんので、簡単に道理とし

てみておきたいと思います。

 
写心に関しての例えでいいますと、写す側の命と写される側の命が即応し

たとき、始めて主・客の立場を超えた心を「写心」することができます。言

い換えますと、写す側と写される側が、命の次元で対話ができたとき、そ

の「写心」は主・客を超えたものとなります。このことが「爾二不二」というこ

となのです。

 
ここでも簡単に命と命の対話といいましたが、一般的に可能でしょうか? 

 
先ず、「爾二不二」について少し述べてみます。

 
これは仏教で説かれる「諸法実相」であり、『総ての「もの・こと」の真実の

あり様』を言うのであって、『ありの侭、その侭が真実の相である』というこ

とを意味しています。

 
又、『世の中の総ては相対であって、常に両極にあるが、それらは相反す

るが故に「もの・こと」として成り立つのであって、どちらか一方、人間の好

みや価値観で固執することは正しい選択ではない。真実の相は、一方が

無ければ、又、他方も在り得ない。このことが真理であるから、どちらか一

方に固執しないで真理を正しく観て生きなさい』


と説かれているものです。

 
具体的に例えれば、『光と闇、男と女、有と無、更に善と悪等々の、ものか

ら概念に至るまでの総ては、相対としての二極に在るが、どちらも実の相

であるから人間の都合で是非を決めてはならない。一方が無ければ他方

も無く、一方が在るから他方もまた在り得るのである。これを「相依性」と

いい、総ての「もの・こと」の真実のあり様である。故に相対のどちらかに

固執することなく、「中道」を歩みなさい』ということになります。

 
以上の事柄を「爾二不二」といいますが、この言葉を意訳しますと、「二に

して、しかも二にあらず」或いは、「二にして、始めて一となる」という意味

合いになります。

 
これらを頭で理解できても実践となると実に至難です。しかし。知ると知ら

ないではやはり雲泥の差があります。
 
上述の写す側と写される側、つまり主体者と客体者、これも相対的二者で

す。これら二極の立場を超えて不二になるとき、即ち「爾二不二」の心で捉

えると、そこには真実の相(ものの本質等)が写しだされることになります。

 
要は、客体に素直に反応する主体であれば、つまり、できる限り「無心」で

「もの・こと」に対応すると、その道は自ずから開かれてくるということなの

です。とは言うものの、この「素直」や「無心」そのものが仏教で説かれると

ころの「悟り」そのものなのですが・・・・・。

     
      
★春の野辺  花の色香に 誘われて
                  知らず知らずや 西陽かたむく
    

                                       ー守道ー

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