その昔、写真は真実を写すものであるとして、日本では「写真」と命名さ
れ、それ以来百数十年の永きに亘って真実を写す方向のみ重視され、
肖像、記録、そして報道としての分野が主流となってきました。その為、
作為的な写真はどちらかといえば疎外されてきたといえます。
写真の技術は当初「写心術」と呼ばれ、フィルムに被写体を潜像させる
ための「露光」そのものが技術であり、「絞り」と呼ばれる光を通す穴と
光の当たる時間を加減する「シャッター」との組み合わせで、如何に適
切な露光を与えるかというものでした。そして構図としてどう纏めるかは
絵画の知識から採り入れられました。とにかく被写体をハッキリと写すこ
とが第一の目的であり、より真実に近く写ることのみ重要視されていた
のです。
しかし今や技術の進歩により、かっての露光の問題は撮影者の技術と
は成り得なくなり、写真のイロハを知らない者でもシャッターを押しさえ
すれば、昔の写真師の苦労して習得した技術はクリアーされ、ハッキリ
クッキリ、美しく写るようになりました。綺麗に写るのが常識となった今、
記録的写真である限り、撮影者に残された技術は被写体をいつ捉える
かというシャッターチャンスと構図の問題しか残らないように思えます。
写真は果たして、記録的な目的だけであっていいのでしょうか? 決し
てそうではなく、記録や報道のメディアとしてのみならず、表現としての
役割も具えているはずです。
表現手段としての写真であれば記録に拘わることなく自由な発想による
独自の表現として、写真の持つメカニズムやテクシックを最大限駆使し、
あらゆる枠組みを外した表現にまで創造されていくべきものとなります。
つまり芸術としての手段となり得るわけです。
「芸術」とは、人間の行うあらゆる表現による創造的行為をいうもので
あって、一切の束縛から完全に自由であるべきを理想とするものです。
故に、写真における芸術は真を写すという枠内に意義を留める必要は
なく、撮影者の自由な発想による創作行為で、思想や心を表現する創
造的作品も写真に変わりはないはずであります。
そこで問題となるのが「写真」という訳語です。真実を写すのが写真で
あっても差し支えありませんが、即物的真でない、即ち心の表現となる
と些か問題ではないでしょうか?
或る被写体を借りて作者の想いを表現する。それが心象であり抽象で
あれ、即物的でないものを写真と呼ぶのは少し抵抗が生じることになり
ます。
単に言葉の問題として片付けられないものがあり、従来の写真的意識
ではこれからの方向性に行き詰まりを感じます。そうかといって単に呼
称を変えたから開けるというものでもありません。あくまで意識の問題
です。「写真は真を写すもの」という意識に縛られている限り、記録性か
らの脱却は困難とならざるを得ないでしょう。
いつの時代か定かでありませんが、写真を「光画」と呼んだ時あったよ
うです。確かにこの呼称は的を得ています。というのも写真の原語であ
る「フォトグラフィー」を意訳したもので、光で描くという意味から光画と訳
されたのです。これは絵画に対抗してつけられた節が見受けられます。
何故なら、絵画の歴史は古く、写真のそれは新しい。そしてその写真の
初めは、真を写す故に絵画の真実描写より優れており、その為に絵画に
利用されるスケッチの代用としての材料提供の役割が主な仕事でありま
した。
この屈辱感を克服しようとして、写真家が「光画」と称したもので、明らか
に絵画への対抗意識が現れています。
要するに写真は今、意識改革の時にきているのです。いつの時代も、ど
のようなものも常に変革されていくものです。写真だけが旧態然としてい
ては生き残ることすら困難でしょう。コンピューター全盛の兆しはもうそこ
まで来ています。従来の写真にとって変わる技術も現れました。そしても
う既にDGやCGの時代にも突入しています。
しかしここで重要なことは、どのようなハイテクの時代になっても絶対に
克服できないことは心の問題です。コンピューターといえど心の機微は
表せないし、心の働きを代行することはできないということです。
ところが写真が真を写す「写真」である限り、いずれ機械にとって代わら
れる時は訪れます。つまり、リアルタイムな真だけを写すことは機械の制
御で充分になされるということです。写真は心を写す「写心」であってこ
そ、撮影者の心が反映され写真に永遠の生命が与えられることになる
のです。
「写心に心が写るのか?」と疑義を挟まれる方があるでしょう。でも実際
個々に撮られた写真にはその撮影者の心が如実に写っている筈です。
只、「写っている」と「写す」という相違はありますが。つまり、意識してい
ないが撮影者のそれなりの心が写っているということです。
更に具体的にいいますと、写真を撮るとき大抵ファインダーを覗く筈です。
この覗くということは撮影者の意識上に被写体がある訳ですし、その被
写体を「どう撮るか」という構図的・技術的な意識も働くことになります。
その上に「いつシャッターを切るか」という判断も働くことになります。これ
らの働きはすべて心の問題です。換言すれば、心が写したのであり、想
いが写ったことになるのではないでしょうか。つまり、このことが心が写
る「写心」ということなのです。
又、次の様なことをよく耳にすることがあります。「同じ場所、同じ被写体、
同じカメラ、そして同じ条件で同じような構図で撮ったにも関らず出来上
がった写真が随分違う」と・・・。
これは至極当然の問題なのです。何故なら、人は夫々考え方も人生観
も違えば、ものの見方も違うのです。このものの見方がすべてを変える
ということになるのですから。
要するに、撮影者の「ものの見方(人生観や価値観)」そのものが、被写
体を「どう見るか」又、「どう写すか」ということに直接関わるからです。こ
の「どう見るか」ということ自体が、考え方や価値観等に由来しその違い
が視点の違い、つまり、何に「どう感動」し、「どう写すか」という問題とな
るのです。前者は「感受性」、後者は構図を含めた「技術」の問題です。
感受性も技術も人それぞれに差異があり、その差異が結果の差異として
現れるわけです。
以上に見る如く、撮影者が意識するしないに関わらず、写真にはその人
の心が写るということがご理解頂けたと思います。少し荒っぽい言い方で
すが、どちらにしても心が写るなら意識的に心を反映させること、即ち創
意創作的に心を表現する方が作品としての価値は上であるといえます。
もしカメラやレンズのメカニズム、更に構図等の写真的知識も知らずカメ
ラ任せで撮るなら、自分で撮ったという実感も薄く、綺麗に写っただけの
写真を見て満足することは、単に被写体の良さとカメラの優秀さに助けら
れ満足しているだけのことで、決して進歩もしないし、人を感動させ得る
奥深い作品は望むべくもないでしょう。
良い作品をものにし、又、鑑賞者に共感を与えるものを撮ろうとするなら
ば、どうしても撮る側の意識を向上させる必要があります。心を磨き、感
性を高め、何をどう表現するかの目的観を明確にすることです。目的が
明確になればその遂行の手段は自ずから決まってきます。
即ち目的にあったカメラとレンズ、メカニズムの活用、そしてテクニックと。
このように表現意図が先にあって、その手段としてのメカニズムやテク
ニックが後になるということが理想であります。
ところで「良い写心とは何か?」ということになりますが、これは単に綺
麗な被写体が綺麗に撮れ、構図等が決まったものだけをいうのでない
ことは、もうお分かり頂けたと思います。「撮影者の意図が明確で、しか
も何にどう感動したかが鑑賞者にダイレクトに伝わり、共感できるような
写心」のことです。そして、「偶然性に頼るのではなく、必然的に意図し
た表現ができること」が撮影者の満足にならなくてはなりません。これが
良い写心の前提条件です。
その為には、まず五感で感受することを大切にし、ストレートで純粋な心
で被写体に接し、大いに感動すること。そして、その感動をフィルムに焼
き付ける作業として、知識ゃ技術が生じるということ。このようにメカニック
やテクニックはあくまで撮影者の感動と目的を表現するためのものでなく
てはなりません。即ち心を伝える為のものであって、単に被写体を写す
為だけのものであっては鑑賞者に何も伝わらないということであります。
以上の如く、理論や技術の先走りでない、心の有り様を重視する写真の
ことを「写心」と称し、又、芸術としてのあり方として心を磨き、技をも磨く
『心技一体としての写心』がこれからの方向性として重要なのではない
でしょうか。
「写心」は心が写るのであり、積極的・能動的に写してこそ写真が写心と
しての価値創造に転じ、鑑賞者にも共感を与え得る意義あるものとなる
のではないでしょうか。
−守道ー
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